東部ニューギニア方面戦没者 慰霊碑

昭和56年5月 歩兵第41連隊東部ニューギニア戦友会建立。 2,021柱の御英霊が祀られている。 碑の裏側に刻まれた「撃つに弾丸なく 喰うに食なく 傷病を癒すに薬なく 人間生存の極限を超えたり 熾烈なる敵の鉄砲火と飢餓によりて戦友等の斃れゆきし様相たるや壮烈悲愴現世にあらざる惨状にして筆舌につくし難し」の言葉に心を打たれる。

捨生取義

明治19年2月15日 建立。 石州の役:14柱、函館の役:25柱、佐賀の役:13柱、台湾の役:12柱、西南の役:45柱の福山藩戦没者を祀っている。 捨生取義とは、正義の為には命を惜しまないという意味。

義勇奉公

明治42年10月 建立。 軍艦「高砂」にて旅順沖哨戒中に散華された大塚海軍大尉と、軍艦「敷島」にて日本海海戦中に散華された行廣海軍大尉を祀っている。 なお形状から推測するに、かつてはこの上に何らかの像が載っていたと思われる。

シベリア抑留者 慰霊碑

昭和55年10月 全国戦後強制抑留者協議会 広島県連合会福山支部 建立。 碑文には「ソ連政府は条約に違反しシベリアに抑留し残酷非道にも一日わずか黒パン300グラムの食料で極寒の中 朝まだ暗き内より夕闇せまるまで時間なき重労働を課し(以下略)」とあり、これを読むと、今も変わらず国際秩序を乱すロシア=ソ連という国、戦勝国の違法行為には目をつぶり、ひたすら自虐的謝罪に走ろうとする一部現代日本人に対し、激しい怒りを感じる。

萬寶山之碑

昭和37年5月 建立。 萬寳山(万宝山)は、日露戦争・沙河の会戦の時に、福山歩兵第41連隊が激戦の末全員散華された地。 もとは歩兵第41連隊のあった、現在の緑町公園に建っていたが、この場所に広島大学分校が設立されたため、備後護国神社に移設された。 台座の石はばら公園にある。

第65旅団戦歿者 慰霊碑

昭和49年11月3日 第65旅団夏友会 建立。 広島県遺族会ホームページによると4,592柱の御英霊を祀っているとのこと。 第65旅団は昭和16年8月に7,300名で編成され、同年11月に宇品港より出征。 フィリピンでマッカーサーの軍を降伏させた後は南洋ラバウルを中心に奮戦するも、 700kmの撤退行軍により多くの戦病死者・餓死者を出す。 昭和21年5月に2,708名が復員した。

メレヨン島戦没者 慰霊碑

昭和41年4月10日 全国メレヨン会 建立。 メレヨン島はグァム・サイパン島の南に位置する島で、昭和19年に海軍将兵及び軍属3,500名、陸軍将兵3,300名が守備隊として上陸した。 しかし周辺の島が玉砕することで、食料・弾薬・医薬品の補給が途絶し、最悪時は1日100グラムの食糧で耐えながらも孤立無援の中、5,200柱の御英霊が飢えと病気と空爆により散華された。 福山は陸軍の主力であった南洋第五支隊編成の地であったことから、この場所に建立された。 碑文末尾には「椰子の根元に埋葬した多くの戦友達の慟哭を聞く そして断腸の想を遠く南洋の孤島に馳せ 遺族の上に思を致せば万感胸に迫って慰問の辞をしらない」と書かれている。 またメレヨン島に赴くため豊後水道を航行中に、敵魚雷攻撃により散華された「江りい丸」乗船将兵198柱も合祀されている。

メレヨン島全戦没者銘碑

平成12年10月 中国地区メレヨン会 建立。 メレヨン島戦没者慰霊碑の後ろ側に、銀色の金属板の横に長い碑がある。 これは、慰霊碑では象徴的で個々の戦没者への鎮魂の証としては十分とは言えないとのことから、 3年の調査を経て陸海軍将兵・軍属の全戦没者を刻銘したもので、 5,161柱の御英霊の御名前が、所属部隊ごとにびっしりと刻まれている様相には言葉を失う。 碑文には「御名前を刻銘することでメレヨン島全戦没者の慰霊弔魂の証が実現した。銘とは深く永く心に刻むことである。」と書かれている。 刻まれている御英霊の数と所属部隊は以下の通り。 陸軍  江りい丸:198柱 司令部:95柱 通信隊:118柱 野砲隊:260柱 戦車隊:53柱 工兵隊:91柱 高射砲隊:116柱 331大隊:442柱 332大隊:469柱 333大隊:402柱 334大隊:453柱 335大隊:210柱 部隊不明:15柱 海軍  第44警備隊:1012柱 第755航空隊:18柱 西カロリン航空隊:39柱 第216設営隊:713柱 芝浦施設部:316柱 第4施設部:139柱 部隊不明:2柱

ノモンハン戦歿者 慰霊碑

昭和53年9月 広島県福山地区ノモンハン會 建立。 ノモンハン事件とは昭和14年5月から5か月間にわたり満州国(日本軍)と外蒙古(ソ連)とで行われた国境紛争で、 かつては日本軍の一方的敗北とされたが、近年の研究でソ連側の被害の方が遥かに甚大であったことが判明している。 設立趣意書にも「惨烈悲壮な苦闘を重ね遂に国境防衛の重責を完うした」とある。 また「忠勇義烈なる英霊の遺徳顕彰と永久不滅の慰霊の為関係部隊戦友が遺族と共に茲に慰霊碑を建立す」とも書かれている。 この碑には主幹部隊であった第23師団12,000有余柱の御英霊を祀っている。

マリアナ 慰霊碑

昭和53年7月28日 広島県マリアナ会 建立。 右奥に78柱の御英霊の御名前を刻んだオレンジ色の板が貼られている。 また左側にある碑文には、一日も早くマリアナ諸島に残る御遺骨を奉還する為に全力を尽くすことを誓うとともに、 旧南洋群島中部太平洋に散られた陸海空総ての戦争犠牲者の御冥福を祈念する旨が書かれている。

拓 魂 碑

昭和48年3月 元満州開拓青年義勇隊備後地区生還者一同 建立。 昭和13年から19年の間に、広島県より送り出された満州開拓少年義勇隊約5千人のうち、大陸に於いて短い生涯を終えた677柱の御霊を祀っている。 右側には「茨の道を切り拓き さきだち進む雄々しさに 嵐の中に燃ゆる火を 掲げて進む凛々しさに 命棒げし尊さよ」と刻まれた石が建っている。

慰 霊(歩兵第二三二連隊石灯篭)

昭和59年5月13日 歩兵第232連隊戦友会 建立。 下拝殿と本殿を結ぶ階段の途中の両側に石灯籠が建っている。 歩兵第232連隊(藤6865部隊)は昭和14年8月に福山歩兵第41連隊ほかで編成され、 同年10月に大陸に出征し数多の作戦に参加、赫赫たる武勲を建てるも、 終戦間際に満州に転進しそのまま終戦を迎える。 そしてあの憎むべきシベリア抑留の不運に遭い、多くの戦友を失った。

陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑

昭和47年4月 広島少飛会備後地区会員・遺族 建立。 碑には香淳皇后の御歌 「やすらかにねむれとぞ思ふ君のためいのちささげしますらをのとも」 が刻まれている。 また碑の右側に、期生毎に備後(安芸津町を含む)出身53柱の御英霊の、御名前・出身地・散華された年月日を刻んだ、 平成13年建立の銅板があり、手前には航空自衛隊初級練習機のプロペラが設置されている。

硫黄島戦没者将兵 慰霊碑

昭和48年9月17日 硫黄島生還者及び戦没者遺族 建立。 昭和20年2月16日に来襲した圧倒的多数の米軍に対し、二万一千名の硫黄島守備隊は、逆に敵に三万五千名の損害を与えるも、 遂に3月17日に玉砕した。 碑文には「国家の危急に身を捧げ傷つき仆れても看護の手もなく暗い熱い壕の中で求むるものの何ものも与へられずして死に至った数多くの将兵の遺骨今も尚地下壕の中に惨嘆たる姿で内地からの迎へを待ち焦がれている有様は誠に慟哭の極みなり」と刻まれている。 

レイテ・ミンダナオ島戦没者 慰霊碑

昭和58年4月 歩兵第41連隊比島戦友会 建立。 歩兵第41連隊は福山にて編成され、東部ニューギニア、平壌と転戦後、 昭和19年5月にフィリピン ミンダナオ島に上陸。 20年7月にレイテ島にて第一・第二大隊は全滅。 第三大隊はミンダナオ島において約半数の将兵を失って終戦を迎えた。 この碑には同連隊2,400有余柱の御英霊を祀っている。